最近、トゥールミンの「議論の技法」を読んだ。
ふつうの主張や議論は、論理学では扱えない話のほうが多い、ということを延々と書いてある、という感想を持った。
論理学では前提から結論を導く方法を論じているわけだが、現実で問題になるのはそもそも前提が正しいかどうかだ、という話。
論理学で要求されるような完全に正しい前提は、とくに「すべての X は Y」というような形(全称)の推論規則については現実世界にはほとんどない、ということが主張されていたように思う。
まぁ、たとえば「すべての人間は死ぬ」とかでもこれが論理学の意味合いで正しいということをいうのは難しい。
この規則についていえば、正しいということはいえないけれど、だいたいのひとにとってはこれを納得するのは簡単だ。だから、納得したひと同士であれば、「ソクラテスは人間である」「すべての人間は死ぬ」というふたつから、「ソクラテスは死ぬ」という結論を得て合意することができる。
もちろん、「ソクラテスは人間である」というほうも納得しないといけないけれど、そちらは全称でないため難しくない。
一般化すると、ある主張に使われている前提を受け入れている人とは合意が可能だ、ということになる。
全称の推論規則はかならずしも全員が納得するかどうかは難しい場合もあるので、これを分解して推論規則自体(論拠W)と、それが正しいと思われる理由(裏付けB)に分割して、その違いを意識するように強調している、というのがトゥールミンモデルかなぁ、と思った。(推論規則が完全ではないため結論も完全ではなく、「だいたい」などといった限定Q と、結論が成り立たない例外Rも必要になる。)
「すべての人間は死ぬ」という推論規則の裏付けは... 生きている人間はたくさん居るので、(人間が絶滅するまでは) すべてのケースについて正しいということは確認できない。それなのになぜ納得できるのか考えてみると「200歳まで生きた人間の記録がない」とか「不死を求めた権力者も結局死んでいる」とか、そういうあたりかなぁ
読んだ後、検索していて、トゥールミンの議論モデルの変容 --- 批判から寛容へ --- を見つけて読んだ。これもおもしろい。
トゥールミンの新しい著作で、モデルから裏付けがなくなっているのはなぜか、という話。
ある推論規則が適用可能であることに合意するためには、裏付けが論拠を正当化することを合意しなければならず、それが受け入れられなければ合意できない、という状況ばかりではない、という話だと理解した。
ものごとの見方・考え方が異なるひとは、裏付けと論拠の関係を合意することは無理なことがあり、それでも合意を行うにはどうしたらいいか。
そういうひとでも個々の典型的な状況については合意が可能な場合、微妙な状況についての合意は無理でも、典型的な状況について一般化された合意は可能という話だと理解した。この合意は裏付けと論拠の関係について合意したわけではないが、それでも合意の一種ではある。
で、その方法が Casuistry というものらしい。(日本語だと決疑論)
しかし、そもそもなんで裏付けを共有していないのに典型的な状況について合意が可能なのか考えると、この話が医療倫理あたりの話からきているからかな。そのあたりは、もともと個々の事例から (直接に、あるいは文化などを経由して) 個人の倫理が作られるだろうから、典型的な事例についてはその良し悪しは個人に依存せずに決まる、つまり、個人がどのような裏付けをもとに判断しているかには依存しないのだろう。
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